「日本の経済思想」

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『日本の経済思想』について   山田博利(経S30卒)

「日本の経済思想」

『日 本 の 経 済 思 想』
江戸期から現代まで
テッサー・モーリス=鈴木 著
A History of Japaniese Ecomomic Thought 1989
藤 井 隆 至 訳 岩波書店 刊 1991

この本を先日、谷町:大阪古書会館での古書即売会で見つけて買った。20年前の本である。読んでビックリした。こんな書籍があったのかと…。20年前に買って読んでおくべき本であった。私の勉強不足を如実に示している。早速、読み出して全く引き込まれた。

著者のテッサ・モーリス=鈴木 女史 は1951年、英国生まれでブリストル大学卒、オーストラリアのパース大学から博士号を取得、現在はオーストラリア国立大学教授(キャンベラ)で、一橋大学客員教授。専門は日本経済史・日本思想史である。

モーリスが女史の姓で、鈴木は主人の姓である。夫はわが国の作家(小説家)で、ペンネームは 森巣 博。小説・エッセイは 幻冬舎・集英社・小学館 その他から出版されている。森巣は夫人のモーリスから取ったペンネームだろう。以下は本書の概説である。私のコメントその他は全て 註 にする。

本書は まえがき 序章 と、1章から6章まで。結論・訳者解説・参照文献・索引となっている。A5版ながら緻密で完璧な学術書である。

序章 でモーリスは、日本固有の経済思想(新井白石・石田梅岩など)はあるが、明治以降それは引き継がれていない…という。即ち、明治維新で良くも悪くも断絶している。経済思想の前に、遺産として儒教(主として朱子学)の学問的一般思想があるという。近代になって日本の経済学は、 ①日本の経済環境 ②西洋の先行する学問 ③経済学者の地位 といった観点からの研究である。日本の経済学者は、「近経」と「マル経」の二派になっている。

第一章 徳川時代の経済思想
江戸初期には井原西鶴が『日本永代蔵』を書き、新井白石や荻生徂徠が幕府の経済改革に関与した。重要なのは元禄以降の石田梅岩であろう。プラグマティズム~心学である。石田は市場~商業の価値を主張した。ベラーも『徳川時代の宗教』(岩波文庫)で梅岩を取り上げている。以降、海保青陵(市場)・佐藤信淵(物産開発)・横井小楠(外国貿易)がいる。結論として、経済の中心思想は、農業→商業・市場→外国貿易→富国強兵と進んでいく。

註1  Mヴェーバーの伝統を受け継ぐロバート・ベラーは、『徳川時代の宗教』で、西洋以外で、ただ一つ日本が近代化に成功したのは何故か?について述べている。ベラーは、“神道の呪術の合理化”をあげている。しかし別の面~制度から見ると、それは「封建制」でもある。封建制度は、西洋~西欧と日本だけである。これは結果論だが封建制度を経験した国が先ず、先進国となった。 一般には、封建制というと、‘うちの親父は封建的だ’とか‘‘うちの社長は封建的だ’…のレベルしか観ていない。 参照:マルク・ブロック著『封建社会』

第二章 西洋経済思想の導入 明治維新から第一次世界大戦まで
この期では、なんといっても‘富国強兵’が中心となる。東京大学にはフェノロサ、慶応義塾には福沢諭吉、一ツ橋(東京商業学校)には森有礼がいた。外にオランダ:ライデン大学卒の西周や津田真道も。
そしてこの時代では、経済学の‘単語’の日本語化が重要である。例えば、Supplyが「供給」・Demandがいろいろ変わって「需要」・レッセフィールが自由放任主義となった。またアダム・スミス『国富論』が田中卯吉によって翻訳された。地租改正が行われ、官営事業の民間払い下げ(格安で)が起っている。

保護主義としてリスト『経済学の国民的体系』(ドイツ)と、リカード=比較優位説(英国)とが対立していた。明治8~28の20年間には、繊維産業(紡績)が日本工業の半分をしめていた。そしてM28~44に、わが国は不平等条約から脱皮した。1890年(M23)横山源之助が『日本の下層社会』を刊行している。1896年(M29)に社会政策学会が創立された。ここでドイツ:シュモーラー系の金井延(1865~1933)と、英国経済学ピグー系の慶応大:福田徳三(1874~1930)の社会政策論争がある。経済学として、新古典派(限界理論:英)・歴史学派(国家主義:独)・マルクスが入ってくる。
この時期は、繊維産業から重工業への時期でもある。 

註2  一般には、ヨク‘近代日本~云々’という。欧米では、近代00とは言わない。欧米では、中世~ルネッサンス~近代~現代は連続である。日本でもそうであろう。わが国では、経済思想は明治維新で途切れたが、その他の思想・文化・芸術などは連綿として繋がっている。石田梅岩の「石門心学」は今でも生きている。(例:京都のPHPなど)

第三章 両大戦間期の経済論争
この時期は、鉄鋼業・造船業のような鉱工業が成立し、農民は日本人口の約半数になった。大正民主主義の時代でもあり、1925年(大正14)から25歳以上の男子が参政権を得た。昭和4年:1929年10月24日(魔の木曜日)に世界恐慌が勃発した。その後、日本はアジアに進行していく。

先ず、河上肇(1879~1946)と櫛田民蔵(1885~1934)。この二人は師弟の関係でもある。世情及び学会は ①農村の恐慌と、一握りの財閥への富の集中が共存~マルクス学派の新古典派批判:自由経済像は現実に適合しない…。②河上や櫛田のマルクス主義者の道徳的な熱情(河上『貧乏物語』河上は英国で学問より、社会状況を観察した~少数の豊かさ:多数の貧困)。③日・独経済学の密接。この時期は、生産様式を始め日本のマルクス経済学の成長の時期でもあった。日本のマルクス学派は、「講座派」と「労農派」の二つがある。

講座派 は旧日本共産党の支配で、野呂栄太郎(1900~1934)と山田盛太郎(1897~1970)~『日本資本主義分析』である。マルクス発展段階の、日本への適合である。

労農派 は土屋喬雄(1896~1088)や向坂逸郎(1897~1085)で、雑誌『労農』の関係者たちである。土屋に近い服部之総は、マルクスの云う‘マニファクチャー’は徳川時代に相当発展していたと言う。19世紀の末に日本が、西洋から工業技術を急速に導入できたのはここに基礎がある…という。ここらに、講座派と労農派の違いがあるようだ。

一方、新古典派には小泉信三(1888~1966)や中山伊知郎(1898~1980)・高田保馬(1883~1972)がいる。小泉はマルクス『資本論』の第一巻の価値論と、第三巻の生産価額論の矛盾を指摘する。この二つは循環論だという。中山はシュンペーターを基盤に経済動態を研鑽し、ワルラスを基に限界理論・一般均衡分析で‘動態と静態’を研究する。また高田は独特な「勢力説」を発表する。1936年(S11年)、JMケインズは『雇用・利子・貨幣の一般理論』を出版した。これで経済学は一変した。

その後は、高橋亀吉(1891~1977)=日本の人口増に注目し、中国・東南アジアへの経済ブロックを主張。北一輝(1883~1937)は『日本改造法案大綱』を1923年に発表した。彼は、貧困の原因は地主と資本家の搾取とする。その外は統制経済の土方成美・難波田春夫の『国家と経済』(1938~43全5巻)がある。 

第四章  戦後のマルクス経済学
戦後の重大な改革は、まずGHQによる農地改革であろう。農民は小規模自作農になった。それと財閥解体である。1947年(S22)新憲法が発布された。1951年桑港で講和条約(日米安保条約も)。日本は一応独立国家となった。日本のマル経は、世界的な学問上の結び付きから相対に孤立していた(鎖国的学問)。

ここで大阪市大の小野義彦(1914~)は、“アメリカの日本従属論は強調過ぎる…むしろ、アジア近隣諸国に対する、日本の経済支配を重視するべき…”との論説を発表した。

越村信三郎(1907~1988)や、スラッファの影響を受けた置塩信雄(1027~)等は、新古典派の力を借りてマル経を再構築(数学=数式でもって)をする。置塩は平均利潤率が正値であるのは、搾取率が正値である場合のみである…を数学的に証明した。また一方、彼はマルクスの‘利潤率の一般的低下傾向’を否定する。即ち、資本制経済のもとでの利潤率は、資本の有機的構成の高度化にともなって低下する傾向もつ…というマルクスの理論を否定する。

名和統一(1906~1978:大阪市大経済)は、リカードの貿易論=比較優位説について、労働価値説(マルクス)を国際経済学に拡張した。一つの不等価交換論である。名和は、ここには見えざる搾取過程があると云う。リカードの比較優位説では、P国=工業製品・Q国=農業製品。Pは工業製品でQの12倍~Pは農業製品でQの2倍。そこで、PはQに工業製品を輸出し、QはPに農業製品を輸出する…。これでは不等価交換が6倍になる…。これが見えざる搾取だと名和はいう。 之に対し赤松要 は「雁行理論」を持ち出して搾取ではないという。名和は本来の複雑労働と‘犠牲的’複雑労働を区別すべきだという。

宇野弘蔵(1897~1977)の経済思想~経済原論について。 宇野の‘土台’と‘上部構造’は、アルチュセールよりも文体が明確である。そして原理論・段階論・現状分析 は 区別~と言うより仕分けであろう。“純粋資本主義”を主張し、マルクスには首尾一貫が欠けていうという。そして彼は、労働価値説は生産論だが、マルクスは「流通」論にそれを導入した…と言う。

現状分析については、大内力(1918~)と大島清(1913~)がいる。ここで、出てくるのが資本主義の最終段階たる「国家独占資本主義=国独資」であった。これは、日本政府の相対的な干渉主義的な性格でもある。当事、日本銀行を介した通貨政策が行なわれていた。大内や大島の論考は、コトバの強勢は別として新古典派と、それほど違ってはいなかった。

その総括は、構造改革論の経済学を主張した 長洲一二(1919~)であった。この頃には、農村の封建的残滓は無くなっていた時代である。また、‘マル経’の危機の時代でもあった。

“再評価される日本のマルクス経済学”は、原理論という神秘な世界に閉じこもっている(ジョン・リー説)。また、日本のマル経は政治にインパクト与えていない。
  
註4  井上晴丸・宇佐美誠次郎 共著『危機における:日本資本主義の構造』1951(S26)を、学生時代に読んだ。その緻密さ・正確さには驚いた。今でもそれは正しいと信じている。ただ、それを‘危機’とは信じていなかった。これこそ正に、日本資本主義~日本経済の強い再生だと思った。今もそう思っている。

第五章 経済理論と「経済の奇跡」  
経済分析と経済成長に関する解明は、経済学者の使命でもある。1950年(S25)に南・北 朝鮮の戦争があり、米軍が介入した。それでわが国では朝鮮特需景気が起こった。そして1955年頃から1973年頃にかけて、日本は本当の成長期に入る。年間約10%の経済成長である。結果として3,5倍の成長であった~化学工業は5.3倍・機械(重・軽=電機)工業は7倍であった。

① この成長は、幸運(ラッキー)か?、日本国民の自力か?
② 経済学者は、どれだけ関係~協力していたか。  

勿論、政府の支援・国民の努力も大いにあったであろう。 ここで注目すべきは、官庁エコノミスト=下村 治 である。S30年度の『経済白書』で“もはや戦後ではない…”と声明した。これによって、「経済白書」の価値が大いに上がった。この「経済白書」に関係のある経済学者(新古典派・ケインズィアン派)は、都留重人・下村治・金森久雄・大来佐武郎・中山伊知郎であった。(それに 大川一司・篠原三代平)

民間設備投資と高度成長 下村治(1910~1989) 
下村理論(S:32年)は「国民総生産中で占める民間設備投資の % が成長率に等しい…」であった。そのためには政府が成長刺激的な経済政策を実施すべき…であった。この考え~理論を、池田勇人首相が“所得倍増(10年間で)”として強力に実行し、完成させた。 その背後には、近代経済学とアメリカの影響がある。そして、フルブライト奨学資金がある。優秀な若者がハーバード大・スタンフォード大・シカゴ大などへ就学した。サムエルソンは、一般均衡派とケインズを合わせて「新古典派総合」とした。その経済学の中心はイデオロギー(哲学)でなく「統計」へ…である。クズネッツが正しく設定した「GNP」や「経済成長率」が中心となった。

その下村理論にも批判者がいる。篠原三代平(1919~)はインフレの傾向を批判し、有沢広巳は大企業と中小企業の賃金の格差~二重構造を批判している(篠原はこの二重構造を輸出の最大要件としている)。

大来佐武郎(1914~)は‘経済安定本部’で、都留とともに『経済白書』を作った官庁エコノミストであり、政治家でもあった(外務大臣)。経済学については篠原を継承している。そして、大来は1960年からの国民所得倍増計画(池田勇人の)を立案者にもなっているケインズイアンでもある。

外国貿易と経済成長  金森久雄(1924~)・小島清(1920~)
金森は、1960年代の日本では労働生産性(技術)>平均賃金率 であったという。また、小島は、次々に発生する新工業~新製品が、日本の輸出増大をもたらした…という

新古典派理論と経済政策批判  小宮隆太郎(1928~) は、最も重要な日本の成長要因は、際立って高水準の個人貯蓄であって、この高貯蓄が1950~60年代にかけての新興成長産業に、設備投資の資本に投資した…という。

寡占と工業成長  宮崎儀一(1919~) と GNPを超えて  都留重人(1912~)
1960~70年代には、環境問題が大きな経済課題となって来た時でもある。また、二人ともマル経と近経の両知識を持つ経済学者でもある。ここでの究極の問題は、 ①銀行融資 ②銀行の中心系列化である。このような「企業形成」は、一つの“金融資本主義”でもある。

最後に、この時期は、新古典派総合の崩壊の時期でもある。 

註5  1960年(S35)所得倍増論(下村治~池田勇人)を聴いた時、‘夢’と思った。安保騒動の直後であった。岸首相は一ヶ月辛抱して(隠れて)「日米安保条約」は自然発効となった。その瞬間はテレビ(まだ白黒)で放送された。若者~学生たちは落胆すると思いきや、皆颯爽とした顔だちだった。一ヶ月闘争した誇りだったのだろう。岸首相はそれを読んでいたのか? 若者が負けて颯爽とした顔をするのは、どういう事か? そこえ池田首相が「所得倍増論」をブチ挙げた。当時、社会党は、“せめて、一日に牛乳2本飲めるような社会にしたい…”と、しみったれた事を言っていた。社会党崩壊の始まりでもあった。

第六章  現代日本の経済思想  
日本は経済大国になったが、日本の経済思想は深刻な危機に入った。日本と西ヨーロッパの経済拡張・アメリカの停滞・これに石油危機など…。日本経済は高度成長から景気後退の解決へ となった。ここでケインズに代わって、マネタリズム(M.フリードマン)が出てくる。 

ケインズからフリードマンへ !
鈴木淑夫(1932~)・新保生二(1945~)=(日銀と官庁エコノミスト)は、貨幣の増減は、直接的に物価変動や実物経済の活動水準を変更させる…を論じた。鈴木は貨幣供給量の動きと、工業生産量の動きのあいだに因果関係があることを証明した。新保は自然失業率と言うものがあり、需要拡大でも、減少出来ないという説を論じた。また、この時期に下村治は‘ゼロ成長’を論じた。

1974年(S49)の『経済白書』タイトルでは‘成長経済を超えて’となっている。そして、行政改革として国鉄や電電公社の民営化が問題となった(国鉄は1987・電電公社は1985=民営化)。1986年に『前川レポート』(内需拡大・都市士開発・減税など)が発表された。

多様性の経済学 森嶋道夫(1930~) 森嶋は数理経済学で、フォン・ノイマンの数学を駆使して経済問題を解明していく。例えば、拡大再生産の「マルクス・モデル」に少し手を加えれば、資本主義経済の不安定成長に光をあてることが出来る…という。

環境危機と社会資本の理論 宮本憲一(1930~) 大阪市立大学の宮本は「現代的」貧困~汚染・都市の過密衰退は、階層に関係なく影響を受けるという。宮本は労働価値論にかわって、社会的使用価値論(労働価値でなく、いわゆる社会価値)を資本主義の中で展開させて行こうとした。
 
不均衡の経済学 宇沢弘文(1928~) 宮本にしろ宇沢にしろ、マルクスや新古典派も知らなかった「社会資本」を重視する。宇沢のいう社会資本とは、 ①自然資本(大気・河川など) ②社会資本(道路・橋梁だど) ③制度資本(行政・司法など)である。 そして、市場均衡安定とは、上記の a社会的共通資本と b私的資本のバランスであるという。(以前、宇沢には、論文:『自動車の社会的費用』があった)宇沢の著作には、新古典派・ケインズ派・マルクス派にまたがって、複雑な数学モデルと経済学・哲学とが強固に結合されている。

社会的価値と産業成長 村上泰亮(1931~) 『産業社会の病理』(吉野作造賞を受賞)の著者:村上はもともと数理経済学だが、タルコット・パーソンズやマックス・ヴェーバーの影響を受けている。特にM.Weberの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の影響がある。ただ、「集団主義」という意味が問題であろう。
 
情報ネットワーク社会 今井賢一(1931~)  今井は日本経済の将来目標を、「情報ネットワーク社会」としている。それは大量生産でなく、多様な製品を小規模で生産するのには、情報ネットワークが適合しているという。

技術革新と経済思想 佐和隆光(1942~)  
佐和はコンピューター媒介の‘情報’を、決して無意味とは言わないが、情報~ ソフト社会では、情報はストックよりも、フローに重点が置かれる。その結果、フローの経済は貯金や倹約といった伝統的な価値観を弱体化させる…という。佐和の解決策は、新しい「国際ケインズ問題」としての取り組みである。

註6  わが国では、ノーベル賞で唯一もらっていないのが‘ノーベル経済学賞’(スエーデン国立銀行賞)である。現在では、青木昌彦『比較制度分析に向けて』(NTT出版2003) 速水融『近世濃尾地方の人口・経済・社会』(創文社1992) がいる。 外国では、経済史で アブナー・グライフ『比較歴史制度分析』(2006)がある。
        

結 論  
モーリス女史は結論として、再び「政治経済学」・「経国済民」をいう。‘たえず変化していく経済問題’を、包括的な把握ができるような新しいパラダイムを探求していくこと。そして、日本の経済思想を世界に発信する事。また世界も、経済大国としての日本の経済思想を無視できないであろう。 それを願う…。 

置塩信雄 によれば  労働生産性ー実質賃金率=利潤率 となる